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森毅先生の名文

森毅 「道化について」より抜粋

 さて、ここにまかり出ましたるは、まぎれもない阿呆にてござりまする。阿呆相手に耳など貸さぬ、などとはおっしゃりますな。

 世に賢者と言われる人の言葉なら、たいていは常識で間にあいます。そうでなくては、世に通用するはずもありますまい。されば、格別に賢者の門をたたかずとも、賢者に学んだと称する人の真似をしているだけで、世は渡れまする。それに、世とは移ろうものでもございまして、いっときは世に聞こえた言葉とて、すぐに色あせるものでございます。賢者の言葉にとらわれぬことこそ、世を渡るのには肝要。

 賢者の言葉より阿呆の言葉。いや、そんなに真剣になっていただかれては迷惑、懸命に聞いたふりでもせねば怒るような、賢者相手のときにその真剣さはとって置いてくださりませ。阿呆相手となると、やっぱり笑っていただくのが何より。

 これでも、若年の道化修行のころには、なんとかして人を笑わそうと、手管を考えたこともございます。しかしながら、人を笑わすのは道化として未熟、笑わそうなどと思わぬのに、笑っていただくもの。笑わすより、笑われるのが道化の芸の極意。

 何ごとかを伝えようという相手には、何ごとか受けとろうといった格好だけはしていても、心の底でそれに抵抗しようとするものでもございます。それがあるからこそ、相手の言いなりにならずにすむ。伝えたり伝えられたりでなく、ただ笑っているだけだと、その心のすきまに何かが忍びこんでくる。これが笑いの業というもの。そこで、入ってくるものを検閲したがる御仁は、とかくしかめっ面になりがちなものでございます。

 笑いで世は動かぬ。世を動かすものは怒りである。などとおっしゃる方もございます。たしかに、世を動かす力に見えるのは、怒りの方かもしれません。ただし、力というものの危ういのは、怒りを力に変えたその力自分を支配してしまうところ。それで、力によって変えられた世が、もっとひどいことにもなりまする。そもそも、世を動かそうなどと思うことが、自分を賢いと思う人の驕りではありますまいか。世が動くのは世の力、人の力ではござりませぬ。

 人の苦しむところでは、怒りが多うございますが、あれは、怒りのほうが笑いより、身のこなしが楽だからではございますまいか。まことに苦しんでいる人はあまり怒っていず、まわりばかりが怒っているなんて光景を、よく目にいたします。怒りで苦しみはこえられませぬ。苦しむ者は、かえってよく笑うものでございます。

 苦しみをこえる笑いが高級で、なにごともない笑いが低級というわけでもございませぬ。高級とか低級とかは賢者の世界、高級な阿呆とか低級な阿呆とかはございません。道化の芸の未熟はございましても、笑いは位をこえまする。

 

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『新・ちくま文学の森 世界は笑う』から。

文体に細かく好きでないところはあるけれど、全段落がパンチライン

賢者の言葉=常識=聞いても聞かなくても という考えは納得してしまうし、

『笑われる』のが道化の極意。というのはシビれた。

格好いいなぁ。滑稽・道化になりたい。

「伝える」より「笑ってもらう」ことで相手の懐に入って、他の何より深くメッセージを刺すことができるというのもすごく納得。中世ヨーロッパの道化も、春秋戦国時代の滑稽たちも、そうやって目上の人間に諫言していたのだろうな、と思う。

笑いは位を超えるというのも、世が動くのは世の力、というのも好きだ。