森毅先生の名文
■森毅 「道化について」より抜粋
さて、ここにまかり出ましたるは、まぎれもない阿呆にてござりまする。阿呆相手に耳など貸さぬ、などとはおっしゃりますな。
世に賢者と言われる人の言葉なら、たいていは常識で間にあいます。そうでなくては、世に通用するはずもありますまい。されば、格別に賢者の門をたたかずとも、賢者に学んだと称する人の真似をしているだけで、世は渡れまする。それに、世とは移ろうものでもございまして、いっときは世に聞こえた言葉とて、すぐに色あせるものでございます。賢者の言葉にとらわれぬことこそ、世を渡るのには肝要。
賢者の言葉より阿呆の言葉。いや、そんなに真剣になっていただかれては迷惑、懸命に聞いたふりでもせねば怒るような、賢者相手のときにその真剣さはとって置いてくださりませ。阿呆相手となると、やっぱり笑っていただくのが何より。
これでも、若年の道化修行のころには、なんとかして人を笑わそうと、手管を考えたこともございます。しかしながら、人を笑わすのは道化として未熟、笑わそうなどと思わぬのに、笑っていただくもの。笑わすより、笑われるのが道化の芸の極意。
何ごとかを伝えようという相手には、何ごとか受けとろうといった格好だけはしていても、心の底でそれに抵抗しようとするものでもございます。それがあるからこそ、相手の言いなりにならずにすむ。伝えたり伝えられたりでなく、ただ笑っているだけだと、その心のすきまに何かが忍びこんでくる。これが笑いの業というもの。そこで、入ってくるものを検閲したがる御仁は、とかくしかめっ面になりがちなものでございます。
笑いで世は動かぬ。世を動かすものは怒りである。などとおっしゃる方もございます。たしかに、世を動かす力に見えるのは、怒りの方かもしれません。ただし、力というものの危ういのは、怒りを力に変えたその力自分を支配してしまうところ。それで、力によって変えられた世が、もっとひどいことにもなりまする。そもそも、世を動かそうなどと思うことが、自分を賢いと思う人の驕りではありますまいか。世が動くのは世の力、人の力ではござりませぬ。
人の苦しむところでは、怒りが多うございますが、あれは、怒りのほうが笑いより、身のこなしが楽だからではございますまいか。まことに苦しんでいる人はあまり怒っていず、まわりばかりが怒っているなんて光景を、よく目にいたします。怒りで苦しみはこえられませぬ。苦しむ者は、かえってよく笑うものでございます。
苦しみをこえる笑いが高級で、なにごともない笑いが低級というわけでもございませぬ。高級とか低級とかは賢者の世界、高級な阿呆とか低級な阿呆とかはございません。道化の芸の未熟はございましても、笑いは位をこえまする。
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『新・ちくま文学の森 世界は笑う』から。
文体に細かく好きでないところはあるけれど、全段落がパンチライン。
賢者の言葉=常識=聞いても聞かなくても という考えは納得してしまうし、
『笑われる』のが道化の極意。というのはシビれた。
格好いいなぁ。滑稽・道化になりたい。
「伝える」より「笑ってもらう」ことで相手の懐に入って、他の何より深くメッセージを刺すことができるというのもすごく納得。中世ヨーロッパの道化も、春秋戦国時代の滑稽たちも、そうやって目上の人間に諫言していたのだろうな、と思う。
笑いは位を超えるというのも、世が動くのは世の力、というのも好きだ。
海の描写について
「砂なんて、おっかしなもんだなぁ」と富なあこが云った。
「うう」と倉なあこが云った。
五月十七日の晩で、二人は沖へ魚を「踏み」に来たのであった。汐が大きく退く満月の前後には、浦粕の海は磯から一理近い遠くまで干潟になる。水のあるところでも、足のくるぶしの上三寸か五寸くらいしかない。そこで、馴れた漁師や船頭たちは魚を踏みにゆくのであるが、その方法は、――月の明るい光をあびながら、水の中を歩いていて、「これは」と思うところで立停り、やおら踵をあげて爪先立ちになる。すると足の下に影が出来るので、魚がはいって来る。筆者もこころみたことがあるが,魚の入ってくることはたしかで、――はいって来たあと、呼吸を計って、それまで爪先立ちになっていた踵をおろしざまその魚を「踏み」つけ、かねて用意の女串で突き刺す、というぐあいにやるのであった。捕れるのは鰈が多く、あいなめとか、夏になるとわたり蟹なども捕れるが、蟹の場合は別に心得があった。
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名文。
青べか物語自体はつまらないので読まなかった。
上記は、『新・ちくま文学の森 世界は笑う』より。
魚の捕り方の説明がほとんどで、情景を説明するのはほんの少しなのに、神秘的な情景が浮かぶのはなぜだろう。
『足のくるぶしの三寸か五寸くらい上までしかない遠浅の海に、満月(か、その前後)の晩に魚を「踏む」』というのがすごく味がある。