木山しょうへい

蚯蚓の詩

 

目がなくとも

鼻がなくとも

かまふもんか。

行け!

進め!

行け!

進め!

久し振りに雨が降って

いいしめりぢゃ

行け!

進め!

行け!

進め!

手がなくとも

足がなくとも

かまふもんか。

からだをのばし又ちぢめ

からだをのばし又ちぢめ

行け!

進め!

行け!

進め!

おれ達は

おれたちの力で

行きつくところまで行きつけ!

森毅先生の名文

森毅 「道化について」より抜粋

 さて、ここにまかり出ましたるは、まぎれもない阿呆にてござりまする。阿呆相手に耳など貸さぬ、などとはおっしゃりますな。

 世に賢者と言われる人の言葉なら、たいていは常識で間にあいます。そうでなくては、世に通用するはずもありますまい。されば、格別に賢者の門をたたかずとも、賢者に学んだと称する人の真似をしているだけで、世は渡れまする。それに、世とは移ろうものでもございまして、いっときは世に聞こえた言葉とて、すぐに色あせるものでございます。賢者の言葉にとらわれぬことこそ、世を渡るのには肝要。

 賢者の言葉より阿呆の言葉。いや、そんなに真剣になっていただかれては迷惑、懸命に聞いたふりでもせねば怒るような、賢者相手のときにその真剣さはとって置いてくださりませ。阿呆相手となると、やっぱり笑っていただくのが何より。

 これでも、若年の道化修行のころには、なんとかして人を笑わそうと、手管を考えたこともございます。しかしながら、人を笑わすのは道化として未熟、笑わそうなどと思わぬのに、笑っていただくもの。笑わすより、笑われるのが道化の芸の極意。

 何ごとかを伝えようという相手には、何ごとか受けとろうといった格好だけはしていても、心の底でそれに抵抗しようとするものでもございます。それがあるからこそ、相手の言いなりにならずにすむ。伝えたり伝えられたりでなく、ただ笑っているだけだと、その心のすきまに何かが忍びこんでくる。これが笑いの業というもの。そこで、入ってくるものを検閲したがる御仁は、とかくしかめっ面になりがちなものでございます。

 笑いで世は動かぬ。世を動かすものは怒りである。などとおっしゃる方もございます。たしかに、世を動かす力に見えるのは、怒りの方かもしれません。ただし、力というものの危ういのは、怒りを力に変えたその力自分を支配してしまうところ。それで、力によって変えられた世が、もっとひどいことにもなりまする。そもそも、世を動かそうなどと思うことが、自分を賢いと思う人の驕りではありますまいか。世が動くのは世の力、人の力ではござりませぬ。

 人の苦しむところでは、怒りが多うございますが、あれは、怒りのほうが笑いより、身のこなしが楽だからではございますまいか。まことに苦しんでいる人はあまり怒っていず、まわりばかりが怒っているなんて光景を、よく目にいたします。怒りで苦しみはこえられませぬ。苦しむ者は、かえってよく笑うものでございます。

 苦しみをこえる笑いが高級で、なにごともない笑いが低級というわけでもございませぬ。高級とか低級とかは賢者の世界、高級な阿呆とか低級な阿呆とかはございません。道化の芸の未熟はございましても、笑いは位をこえまする。

 

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『新・ちくま文学の森 世界は笑う』から。

文体に細かく好きでないところはあるけれど、全段落がパンチライン

賢者の言葉=常識=聞いても聞かなくても という考えは納得してしまうし、

『笑われる』のが道化の極意。というのはシビれた。

格好いいなぁ。滑稽・道化になりたい。

「伝える」より「笑ってもらう」ことで相手の懐に入って、他の何より深くメッセージを刺すことができるというのもすごく納得。中世ヨーロッパの道化も、春秋戦国時代の滑稽たちも、そうやって目上の人間に諫言していたのだろうな、と思う。

笑いは位を超えるというのも、世が動くのは世の力、というのも好きだ。

 

海の描写について

山本周五郎 「青べか物語」より抜粋

 「砂なんて、おっかしなもんだなぁ」と富なあこが云った。

 「うう」と倉なあこが云った。

 五月十七日の晩で、二人は沖へ魚を「踏み」に来たのであった。汐が大きく退く満月の前後には、浦粕の海は磯から一理近い遠くまで干潟になる。水のあるところでも、足のくるぶしの上三寸か五寸くらいしかない。そこで、馴れた漁師や船頭たちは魚を踏みにゆくのであるが、その方法は、――月の明るい光をあびながら、水の中を歩いていて、「これは」と思うところで立停り、やおら踵をあげて爪先立ちになる。すると足の下に影が出来るので、魚がはいって来る。筆者もこころみたことがあるが,魚の入ってくることはたしかで、――はいって来たあと、呼吸を計って、それまで爪先立ちになっていた踵をおろしざまその魚を「踏み」つけ、かねて用意の女串で突き刺す、というぐあいにやるのであった。捕れるのは鰈が多く、あいなめとか、夏になるとわたり蟹なども捕れるが、蟹の場合は別に心得があった。

 

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名文。

青べか物語自体はつまらないので読まなかった。

上記は、『新・ちくま文学の森 世界は笑う』より。

魚の捕り方の説明がほとんどで、情景を説明するのはほんの少しなのに、神秘的な情景が浮かぶのはなぜだろう。

 

『足のくるぶしの三寸か五寸くらい上までしかない遠浅の海に、満月(か、その前後)の晩に魚を「踏む」』というのがすごく味がある。